今僕は、

今僕はどうなっているのか?

自分を見失って、ほんとうに、ほんとうに投句から自分を見ているような気分なんだ。

嘘じゃない。

嘘を言ったところで誰も得をしないことぐらいきっと君も知っているはずさ

だけど、ほんとうに、ほんとうにもしも、自分を遠くからしか見れなくなったときに見える自分って言うやつが情けない時運だったらどう思うだろうか。

本当につらいとおもう。

情けないという言葉を使うのが一番かと思ったけど、そんな感情はわいてこない。

ただそこに、ただそこにいるだけなんだ。

また、頑張れる気がすると後にした文学フリマ

大阪でもう一度というなら、この歌ほどいい曲はないと思う。

Hysteric Blue 【春〜spring〜】

こういう夢ならもう一度逢いたい 春が来るたび大きくなれる
そういう気持ちを 忘れずにいたら
強く生きられるような気がして

文学フリマ

個人敵には多くのテーマがあった。
本を書くこととか、「自分がやりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」。
虚無感とどうつきあっていくか、創作とは何なのか。

別に本が好きだから、本を書かなければ行けないとかそういうのは全然別で、
本が好きだからといって作家になりたいというのは全然別の所にあった。

しかしながら、本は完成してしまった。

完成してしまったというとおかしいけど。本は完成して。
売って、私の手元を離れていった。

さよなら、私の本。



幸運なことに、宣伝もしていないのにも関わらず、見本誌から本を手に取ってくれる人が多くて単純にうれしかった。

左右ともに、ブースで本を開いて本を考えて購入ということが多かったなか、なかなか自分のブースの本が手にとってもらえないというのは少し悲しかったわけで、何よりも中身を吟味して買ってもらえたのは単純にうれしかった。

そんな私を大きく動かしたのは、他でもなく、ある人の支えだと思う。
たとえるなら、愛という言葉が一番美しいと思う。

大阪文学フリマもきっとどこかで、愛が動かしているところはあると思う。

私はぶっきらぼうだし空っぽなので少し愛という言葉に少し違和感がある。
きっとそれは愛を知らないからできっと本当の意味で愛を知る日が多分近々くるかもしれない。

すべて、つながって、すべてが奇麗に「よかったね」と言える日がくるまで。

文学フリマまでやっておきたいこと。

文学フリマまで後一日となりました。

これと言って本を売るかというのは深く考えていないのですが、
インタビューを沢山できたらしてみたいと思っています。

本を作ることは魅力的です。

たぶん、文章が死ぬほど嫌いという人でなければ、楽しみであることの方が多いと思います。
しかし、出版にかかわる専門的な領域が非常に多岐に渡るため、その総合的な姿をパブリックに示す機会はなかなかありませんでした。

そのためにはその答えを必要としています。経験豊かなプロが自らの体験を踏まえて、本制作のさまざまな側面を語る本は必要不可欠です。

そのためにはインタビューや寄稿の収集作業は必要不可欠です。

お金にならないならやりたくないという人は多いかも知れませんが、ぜひ実現したいと思っています。

考えている本は「文学をはじめるために知るべき40のこと」です。

内容は自分自身の本の書き方や、価値観、感想というものでかまいません。
できれば40名に寄稿をぜひお願いしたいと考えています。もし、寄稿してもいいよ!っていう方がいましたらお声かけください。

本たちの踊り場

クラシックを聴きながら残り少ない文学フリマへの日数を数える。
もう、片手で数えられるくらいに間近に迫っている。

きっと三日もすれば、「うれしい」とか「かなしい」とかを通りこした 自分がたっていると思う。

僕の作品はいい作品かどうかはわからない。悪い作品で全く売れないかもしれない。

世の中には「いい作品」であふれている。
さらにいってしまえば「いい作品だけど売れない作品」があふれている。
「いい作品」はうれる鴨知れないけど。、いい作品を見つけられる人は限りがある。

いい作品を見つけられる人は限りがあるというとおかしいかもしれないけれど、
絶対的な参加者が少なければ、僕たちの本に届いてくれる可能性は低くなる。

少し前までは私は「いい作品は必ず売れる」とおもっていたけど、実際はいい作品でも売れなことはある。
「売れなければいい作品じゃないのでは」ということは必ずしもそうでないと思うこもあるし。
売れていないのにいい作品名ワケがないというのもわかる

そんなアングラ感がぶつぶつしているのが文学フリまである。
僕たちの本は書店に並んでいないことの方が多い。

言ってしまえば、僕たちの本は、どこかに委託でもしない限り、限られた参加者にしか届かない。
限られた参加者に売っていては、本当に売れている作品がいい作品とは限らない。(本当にいい作品のときもある)

世の中には表紙買いなるものも存在するし、本当の実力ではないと豪語するものもいる。
私たちはどちらかといえばアーリーリーダーだ。

あまたある本を読みあさり、本に対しての感度が高い。

このイベントが小さな頃から実権を握っているというひともいない訳ではない。
イベントのことから、この世の中の本のことまで知っているという人が現れてもおかしくない。
みんな本が大好きなのだ

もしかしたら、僕たちの書いている本はターゲットがものすごく狭く、読者全員に届かないかもしれない。
ある限られたターゲットをねらって弾を撃っている人は少なくない。

そのなかでも人気というのはあるかもしれないが、本当にリーチしなければいけないときには
いつしかターゲット層を考えなければいけない。

文学フリマだけにターゲットをしぼるのであれば、文学フリマの本を書けば一番売れるのは間違いない。
「入門書」でもなんでもいい書けばきっと売れるに間違いない。
だけれども、きっと僕たちはもっと向こうのその先に飛び立ちたいのだ。

ターゲットをしぼって、買われなかったとしても僕たちは本を書くのだ。
ターゲットをしぼらずとも僕たちは本を書くのだ。

本を書くのだ。
俺が僕たちの踊り場なのだから

僕たちの本たち

文学フリマまでの開催までちょうど一週間を切った。

いつの間にかtwitterのタイムラインはいかに本を売るかの情報戦という戦場と化して、
過ぎ行くタイムラインは怒濤のごとく宣伝に費やされている。

殺伐として、ただただ「売ります」の情報が流れている。

ただしかし、新しい何かが見つかっていない。

それは個人での交流もあるかもしれないし、もっと違う何かかもしれない。

僕たちの文学フリマでやることは何だろうか?
多分それは「体験を売る」ことでしかないだろう。

今や情報のあふれかえったこの時代にわざわざイベントにに足を運ぶことも少ない。

その中でどうやって本を売っていくか、イベントに来てから商品を選ぶ、買い物を楽しんでもらう体験をどのように演出するか、
僕たちはそれが求められいてる。

文学フリまで売られる本のほとんどは良品だろう。
しかし、他人との違いを見いだせなければただの価格での勝負となってしまうし、
サークルの奇麗さやもしかしたら売っている人の雰囲気で決まってしまうかもしれないあやふやさがある。

その中で僕たちは本当に本を売るという体験ができるのだろうか。

情報戦は確かに有効な手段かもしれない。
でも、情報戦に負けて本が売れなかったらきっと悲しいと思う。
その中で僕たちはどんな体験を売っていくなのだろうか。

確かに、イベントが終わってしまったら「楽しかった」の一言で終わってしまうかもしれない。

でも、「次」につなげていくためにはどうすればいいかの答えは見つけられないかもしれない。

ここに来て、さぁ、じゃぁその答えを見つけようとしても、きっと見つからないと思う。
僕たちはもっと一生懸命、その何かを見つけなければ行けない。

本を書いてわかったこと

原稿を送付してから、ついに発送の手続きのメールが入った。
後は完成品を受け取るだけになる。

今回の本は良くも悪くもいい本ができたと思う。
内容はともかく、僕がいかにどういう人間だったかを考えさせられるものであったことは間違いがない。

先ずは小説を書こうと思った。
昔小説を書いていたこともあったし、何よりも僕は小説を書きたいと思っていた。

2時間もしないで小さな一つの小説ができあがった。A5で3ページ程度の短い小説だ。

これを、ちまちまと書いていれば一冊の本は出来上がる予定だった。

ついには20編のショートショートができあがった。
ページ数を合わせれば60ページはいく計算になる。

でも、一つ残念だったことあは、本当に自分の書きたい文章だったのか?
問いに答えられなかったのでした。

ただ本を書いていた。ただ本を書いていただけだった。

誰に向かって、どういうことを表現したいかが全くと言っていいほど抜けていた。
書いた小説は全くと言っていいほど別々の話だった。

ページをめくればめくるほど右往左往する作品で、もしかしたら、それでも良かったのかもしれないけど。
僕は僕の本を引っ張っていく船頭だ。

これでは全然納得がいかなかった。

この短編小説はすべて没にした

そしていつの間にかエッセイを書いていたのだった。
良しも悪しも自分はblogを書いているので何方かと言えばこっちの方が向いていたのかもしれない。

よくわからないけど、僕は小説にこだわりすぎていた。

本当はもっとどんな本を出すか考えたからどう表現するかを考えるべきだった。

書く内用がエッセイにかわってから文章は日に日に良くなっていった。
小説にこだわっていた頃よりもずっとのびのびしている。

ただ、原稿締め切りの間際に書いたので善し悪しはやはり別なんだけど。それでもまぁまぁの本ができたと思う。

ただ本当に続けていかないと本を書くって言うのは一長一短にはできない。
一冊本を入稿してしまったら売れる売れないかはもう天任せにして次の構想を練らなければいけないのだ。

次回は多分本を出すと思うけど、雑誌を作りたいと思っている。
いい本を選定するとかはできないかもしれないけど、文学フリマをもっと楽しいものにしていきたいと思う。

心の奥底ではやりたかったのは運営かもしれないとは思っているけど、多分そんなことをやっている時間はない。
そんな時間は多分ないんだ。

やりたいことは山のようにあるし、お金もかかる。
もしも本気で何かをやるならこのサイトを超人気サイトにしなければいけないしそのための超えかけもしなければいけない。
でも、僕がやりたいのはそういうことなんだと思う。

小説を書くのは少なからず才能はいるし、僕にはその才能がなかった。
ただそれだけだっただったと思う。

書を捨てよ、本を書こう 文学フリマのこれから

文学フリマへの原稿がついに仕上がりました。

どことなく長かった旅が終わるような感じがしましました。
まだ売るまでもいっていないのですが、一応一安心することができました。

誰かが言ってたけど、文学フリマは始まってしまえばもう買い手が勝負のイベントになってしまいます。
いかに優れた読み手が現れるか今後の課題になってきます。

良い買い手なしでは文学フリマは成長をしないのです。

少なくとも多くの文学フリマにサークル参加する人は作家の素人です。
そして、お互いの本も買うし、わざわざ本を買いにきてくれた人にも本を売ります。

よく同人漫画の世界ではお互いに見せ合って善し悪しを決めたりしますが
文学の世界ではどうでしょう?

当然行われているとは思いますがごく少数ではないでしょうか。

小説は漫画以上、それ同等に表現が繊細です。
繊細な故に漫画よりも「自分にあった」本に出会うことは大変でしょうし
何よりも、相手の読書量とそこから培われた完成がない限り本をそのまま受け止めてくれることはまず難しいでしょう。


しかし、文学フリマはどうでしょうか。読書好きの魔窟です。
中にはビブリオマニア敵な存在もいるかもしれません。

このとき初めて僕たちは、もしかしたら編集者の目で本を読んでいるのかもしれません。
とても貴重な体験だと思います。

何せインディーズ編集の手のかかっていない生の本を手に取っているのですから

そう、お客さんの読書量が最も多いいのが多分この文フリなのです。
お客さんは言ってしまえば編集者に近い存在でわたしたちを支えてくれているでしょう。
もしも、質の高い読者が現れなかったら文学フリマは廃れてしまうでしょうし、
文学への興味が薄れていると感じてもおかしくありません

プロとアマチュアが切磋琢磨して本を売る文学フリマ、多分プロとアマチュアの差は出てきます。
しかしそんなインディーズ市場で僕たちはプロがいつかでることを望んでいる。

いつかは自分もプロになりたいと思う日が来るかもしれない。
そんな日がいつか来るかもしれない。

僕は本を読む時間を書く時間にかえてきた。その成果ではないかもしれないけどそんなものが
文学フリまで少しでも芽がでればいいと思う。